扇子の起源は古代中国の貴人が用いていた翳(さしば)にあります。翳(さしば)とは柄の長いうちわの形状をした、高貴な人物の身体を隠し神秘性を高めるための道具(威儀具:いぎぐ)です。古代中国では貴人の外出時に従者が翳を持って同行し、貴人の姿を隠すと共に周囲の庶民へ貴人の通行を伝える目印ともなっていました。
うちわ翳は古墳時代の日本へ伝来しており、翳を象った埴輪が6世紀に造られた大室古墳群(おおむろこふんぐん:群馬県前橋市)などで出土しています。また、飛鳥時代末期に造られた高松塚古墳(たかまつづかこふん:奈良県明日香村)の壁画には翳を持った女性の姿が描かれていました。これらのことから、風を送る道具として、うちわ形状のオリジナルは中国ということができます。
このように扇子の原型ともいえるうちわは文明発祥時から存在する長い歴史を持つものであり、日本には7世紀ごろに中国から伝来しました。このうちわを折りたたんで携帯に便利な扇子にするというアイデアは、ずっと時代が下がり、8世紀頃の日本で発明されたといわれます。
初期の扇子のスタイルは、束ねた木簡(もっかん=文字を書き記すために用いられた薄い短冊状の木の札)の端に穴を開けて紙縒(こより)でまとめ、板骨の間を紐で繋いだ『檜扇(ひおうぎ)』といわれるものです。これが扇子のルーツといってよいでしょう。そこから形状が洗練され、宮中女子の間に広がる頃には、扇面は上絵で飾られた雅やかな身の回り品になりました。うちわのオリジナルは中国ですが、扇子のオリジナルは日本なのです。
初期の檜扇は男性貴族が公の場で略式の笏(しゃく=束帯を着用するとき右手に持つ細長い薄板)として使用されるようになり、宮中での複雑な作法を書き留めておくためのメモ帳としても使われていたと言われています。やがて檜扇の装飾性が高まり、要も紙縒(こより)から木釘へ変わり、装飾された金具で補強されるようになります。木簡を綴じていた紐もより装飾性に工夫が凝らされるようになりました。
扇面に絵が描かれるようになると装飾品として宮中の女性にも普及します。女性の持つ檜扇は袙扇(あこめおうぎ)と呼ばれ、装飾品としてだけではなく、とっさに他人の視線を遮る道具としても用いられていました。
こうして檜扇は平安時代に貴族の正装の必需品となり、あおぐという本来の役割のみならず、礼儀や贈答、コミュニケーションの道具としても用いられるようになったのです。具体的には扇面に和歌を書いて贈ったり、花を載せて贈ったりしたことが、源氏物語や蜻蛉日記など多くの文学作品や歴史書に書かれています。
檜扇に続いて登場したのが『蝙蝠扇(かわほりおうぎ)』です。これは片面に紙を張り付けた紙扇ですが、いつ誕生したのかについては定かではありません。蝙蝠扇の名称は、広げた形が蝙蝠に似ている、あるいは「紙貼り」の音が変化したことが由来とされています。
その後扇子は鎌倉時代になると中国に輸出されるようになり、伝統美術工芸品として発展を遂げました。中国では紙を両面に貼った扇が作られるようになり、室町時代には日本へ「唐扇」として逆輸入され普及します。こうして現在の扇子の形ができあがりました。
鎌倉・室町時代になると、扇子は武将が戦場で軍勢を指揮する際にも使われるようになります。扇骨が鉄でできている鉄扇は扇面に日輪や月輪が描かれ、平時にも護身用に用いられるようになりました。武士階級においては、刀と同じ物と解釈され尊ばれたといいます。
礼法が確立された室町時代には、庶民の間でも暮らしの折目節目に扇子が使われるようになります。正月や御宮参り、結納・結婚の祝儀の贈答や選別などにも、扇子が取り交わされるようになりました。
また、この時代に生まれた能楽、歌舞伎、舞踏などの芸能や、茶道・香道などにおいても、扇子は欠かすことのできない小道具として重宝されるようになりました。この頃、貴族や神職だけのものだった扇の使用が庶民にも認められ、扇子は能や茶道、舞踊に用いられることで、さらに庶民の間へと広まっていくことになります。
日本で発明された扇子は、コンパクトに折りたためるという利点が高く評価され、大航海時代には中国を経由してヨーロッパにまで輸出されました。そこでも独自の発展を遂げ、17世紀のパリには扇を扱う店が150軒を超えるほど、上流階級のコミュニケーションの道具として大流行しました。羽根扇やレースを編み込んだ洋扇などが誕生したのはその頃です。
あおいで「涼」を取るという、現在の一般的な使用法がポピュラーになったのは、庶民文化が花開く江戸時代後期のことです。「涼」を取る小道具としては他にうちわがありますが、コンパクトに折りたためるという機能を持った扇子は、外出用のおしゃれな小物としても庶民の間に広がっていきました。